塾主あいさつ

塾主あいさつ

長野 享司

「いつの間に日本は、こんな国になってしまったんだろう。」
 最近のいろいろなニュースを聞くたびに、心ある人はこう嘆息されるでしょう。かつては身分の上下を問わず幼いときから藩校や寺子屋で「論語」や「小学」「孝経」などを学び、人間として最低限必要な道徳を身につける教育がなされてきました。
 もう一度大人も子供もかつての日本人の学んだ古典に親しみ学んでみませんか。不透明な時代に新たな指針が見出せることでしょう。


長野 享司 プロフィール

ながの きょうじ
1953年京都市生れ 龍谷大学文学部史学科卒。
衣笠三省塾(木俣秋水先生主催)にて漢籍を学ぶ。
社会人生活の傍ら漢籍を学び続け、実社会に活きる学問を目指す。
関西師友協会、論語普及会所属。
少林寺拳法京都衣笠道院 道院長。


論語普及会の会誌『論語の友』に掲載されたもの

以下は、2006年4月塾主である長野享司が執筆し論語普及会の会誌『論語の友』に掲載されたものです。

京の町に「素読」の響き

 「底冷え」と呼ばれる京都の冬の寒さがようやく和らぐこの季節、早春の日差しの中に元気な素読の声が響きます。ここは京都の西北、衣笠山に抱かれて金閣寺や龍安寺が静かにたたずむ街の一角です。昨年四月この場所(自宅)で、論語を学ぶ「衣笠三省塾」が誕生しました。現在毎週土曜日午前十時から大人子供合わせて約十名が論語の素読と漢詩を学んでおります。

 私は、二年前まで京都の呉服卸の商社に勤務する一会社員でした。毎日商品を積んで得意先回りをし、「いらん、いらん!」と言われながら「そこを何とか…」と粘り続ける悪戦苦闘の毎日でした。大きな催事があれば、早朝から出かけて深夜に帰宅。休みは月に1~2回、休みなしの月もあり、「一体自分は何をしているのだろう。」と思い悩む日々でした。若いうちは体力もあり、仕事を覚える時期でもあり、また子供も小さいし、家のローンもある、というのでさほど苦には思いませんでした。しかし四十代も後半にさしかかる頃から「このままのサラリーマン人生では何も残らんな。」という思いが沸々と湧きあがって来ました。その思いの元は学生の頃に覚えた「漢詩」の一節でした。 「丈夫玉砕スルモ甎全ヲ愧ズ」(西郷南州)や「壮心尚是レ家ヲ思ハズ」(乃木希典)などの男児の気概を歌ったものは、生き方のお手本として憧れておりました。それに引き換え今の自分の生き方はどうだ?と自問すると誠に「情けない」の一言に尽きるものでした。

長野 享司

 平成十六年、五十歳を機に退職を決意しました。人生五十年、昔の人なら多くの偉業を成し遂げて死んでいく歳です。また詩の一節が浮かんできました。「人生五十功無キヲ愧ズ」(細川頼之)、でもこの句は「愧ズ」と言いながらも「自負を含んだ表現である」と解説に書いてありました。私は文字通り「愧ズル」だけの五十年でありましたから、何か自負できるものを残したいとの思いが募り、28年勤めた会社を辞めてしまいました。家内は何も言わず受け入れてくれました。本当に感謝しております。

 ここまではいいのですが、さて私の念願であった「平成の寺子屋-漢籍の塾」はなかなか思うようには行きませんでした。何の肩書きも実績もない男が、いきなり「論語を読みましょう」といってみたところで人が集まるはずもなく、開店休業のような日々でした。新聞にチラシを入れ、広報誌に広告を載せたりしましたが、反応はゼロ、「やっぱりダメか」と弱気になったこともありました。家内などは「いまどき、そんなもんに来る人あらへんわ。」と冷ややかな目。とにかく継続は力と続けていくうちに二人の小学生の女の子が来てくれました。その子の近所の女性が一人来てくれました。この三人の声が、わが衣笠三省塾の産声でした。昨年七月のことです。その後は二~三人で講義の日々でしたが、秋になって一人増え、二人増えたところで、今年の二月地元の新聞が記事にしてくれました。新聞の力はさすがに大きく、その日のうちに電話が十数件入ってきました。「こういう教室を探していた。」とか「昔女学校で習ったが、もう一度勉強したい。」などの声が寄せられ、心強く思いました。家内に「どうだ!」と胸を張ったのは言うまでもありません。しかしここに至るまでの私を支えてくださったのは、伊誉田先生の「弟子は最初の一人こそ尊いよ。」というお言葉や、村下先生の「郷学といって、地元ですることに意義がある。やっておくんなはれ!」という励ましでした。この励ましのお陰で挫折することがなかったと感謝しております。

長野 享司

 以上のような経過を経て生まれたばかりの塾ですが、熱意だけは自慢できます。何といっても京都は学問の府であります。明治の学制に先駆けて町人の力で小学校を作り、「明倫校」「修道校」「格致校」などのゆかしい名前をつけて各学区の誇りとして現在に至っております。その前の江戸時代には、石田梅岩の唱えた心学という学問が、町人の道徳として多くの人々の支持を得ていました。石田梅岩は呉服屋の番頭さんから心機一転学問の道に進んだ人で、私には他人のような気がしません。そういう土壌がある土地柄ですから道を志す人材が埋もれているはずです。それを掘り起こすのが私の役目と感じています。今後とも、会員諸兄のご指導ご鞭撻を切にお願い申し上げます。

  「京都へ来はったら、いっぺん(一度)見に来ておくれやす。」